鍵田真由美・佐藤浩希フラメンコライブ@佐渡島は、彼らの公演「曽根崎心中」を見て以来2回目の鑑賞だった。
「曽根崎心中」の時の大ホールとはうって変わって今回は築150年の日本家屋を移築して建てられたお宿の板の間。天井にはゆるい曲線を描く太い梁がめぐらされ、土間に敷き詰めた砂利と佐渡の赤石は凹凸を成し、シンメトリックな配置を否定するようにケヤキの柱は不規則に床から突き出して天井を支えている。
そこは一部の隙も無い日本的空間であって、この土地の気候風土が生んだ造形美だ。そこへ鍵田さん佐藤さん一座は遠い西の果ての国の様式美とその地に生まれ育った演者たちを伴いやって来た。 板の間で踊る彼らと土間の間にある柱は観客の視界を遮り、マイクを通さないギターの音は合掌造りの天井に吸い込まれていく。それでも、この古い木造の建物の中は彼らの一途な想いとそれを受け取った観客の熱で満ち満ちていった。これは誰にでも出来ることではない。音響・照明・舞台コンディションといった外的要因によってモティベーションを落とすことのない、彼らの潔い姿勢に胸のすく想いがした。
僕は客席の一番後ろで観ながら、「芸術は国境を越える。」というどこか安易で陳腐な響きのする表現に取って代わる新たな解釈を、この夜得たような気がした。
ある伝統に根差した芸能を、その文化・歴史・伝統に属さない者が演じるという事に対して、僕はどこかでそこに不整合性のようなものを感じてきた。それはいわば目の前にあって視界を遮るケヤキの柱のようなものであって、僕の中に何か居心地の悪い、違和感を生み出す拭いがたい概念だった。
しかしだ。一昨日のあの板の間の上で歌い踊り奏でた彼らがそうしたように、ひたすらに一途で、触れるものを火傷させるほどにひたむきな想いは、その視界を遮るケヤキの柱をすら、舞台美術として内に取り込むことに成功するのだ。
外国人であるという事は不整合な事ではなく、その者は「芸術は国境・民族・文化の違いを美の構成要素として自らの内に取り込むのだ。それらを超越するのではなく。」ということの体現者となるのではなかろうか。
かつて彼らの「曽根崎心中」を観た時に感じたものも、そうした魅力に満ちた「肯定する力」だったような気がする。
昨日は鍵田まゆみさん佐藤浩希さんが主宰するフラメンコ舞踊団の公演が佐渡島の「花の木」であり、裏方として微力ながらお手伝いさせていただいた。
古い日本家屋の板の間にコンパネを敷いて仮説の舞台を作るのだが、その設営を和太鼓グループ「鼓童」の花形プレーヤーであるS君が手伝ってくれた。僕は以前「鼓童」の公演を観た時に、決して舞台の中央ではない所で大勢の中の一人としていながら、ひときわ輝きを放っていた彼に目を釘付けにされたのを覚えている。その公演の後、「鼓童」メンバーの友人に頼んでわざわざS君に話しかけさせてもらった。それから3年が経ち、今回一緒に舞台設営(ただコンパネを敷くだけだが・・)をやらせてもらった今、僕は9歳年下の彼に感謝したい気持ちでいっぱいだ。あんなに楽しそうに重い机を運び、あんなに楽しそうにノコギリを使い、あんなに楽しそうにチケットのもぎりをする姿を僕に見せてくれた人間はなかなか思い出せない。
そんな涼やかなS君が裏方に徹した1日の最後に打ち上げの席で披露してくれた地元佐渡の鬼太鼓舞いに、僕は完全にノックアウトされた。
いつか一緒に仕事をしてみたい。
昨日は6月21日に千葉で出演させていただくシャンソンフェスティバルで演奏する予定の曲を、ギター奏者の友人と練習した。
今日は夕方のスタッフとの打ち合わせの前に、知人のスペイン人ギタリストの招待でフラメンコのショーを観に行った。
今日は千葉県市川でのサロンコンサートにお招きいただいてギターの演奏&トークをさせていただいた。